第41話  電車人身事故 武龍
はじめまして、こんにちは!
武龍(ぶりゅう)と言います。
私の過去にあった出来事なんですが、カキコしたいと思います。
去年の12月のクリスマスの日、私は中3で補習がありました。
そして帰りに友達と電車で帰ったのですが、その日電車が人身事故で遅くなってました。
最初は正直な話、その身を投げた人に対して怒りを持っていました。その日は寒かったので…
でも電車に乗って帰っていくうちにその人(見たことのない人)のことが頭から離れないようになってしまって
友達としゃべって帰り、その日は平和に終わろうとしました。
しかし、その日の晩なにげなく自殺した人のことを考えていると突然、気分が悪くなり寝ずにはいられなくなりました。
自分が自分でなくなるような気がしたので咄嗟に頭の中で出た呪文を言ってたら何もない状況になりました。
これはここで終わりなのですが、
2度目の人身事故で電車が遅れた晩には
見知らぬ男性に「私の妻や子を助けてくれ」みたいなことを寝ている時に金縛りにあいながら言われ続けたりします。
こういうのに遭遇しないためにはその人のことを考えない方がいいと友達から聞いたのですが本当なのですか?
教えてください。

奇妙な夢で自分がよく草原のところに立っていて女の人がこっちに来る時に殺されるというのをよく見るんですが
これも何か関わりがあるのか教えてください。
長々と乱文失礼しました。

第42話 今、ガラス越しに・・・・・ 江ノ島神社
今、午前2時半です。私はこの4年程夜更かしがなおらない毎日です。
今までに何度も真夜中の静かな家の中で、2階の階段から誰かが降りてくる気配と足音を聞いたことがあるのです。が確かめると家族は寝静まっていて1階にいるのは私一人ということが頻繁にあります。慣れてしまうとさほど怖くもないというか、「あれー、またか?」で、過ぎてしまうのですが、さっきはちょっと違いました。テレビを見ているとやはり階段を下りてくる音に、気配。たぶん夫かなあ、と思っていました。リビングのすりガラス扉に男の人の姿が透けて玄関へと横切りその姿は動いていきました。てっきり、夫だと思いながらも不可解な行動に疑問。「玄関の施錠を確かめてるのかな・・・・?」その後戻る音も姿もない。
時間が経ち、そろそろお風呂にでも入って寝ようかと思った時また2階から夫が降りてくる気配が。「オヤスミ。」と、声をかけにドアを開けたのでさっき玄関まで来てなにしてたの?と聞くと「ずーっと2階にいて今降りてきたのにな。」と言われました。こ・わ・い。初めて見てしまったようです。ガラス越しですが。夫にしつこいほど確かめてみたけれど私が見たのは夫ではない誰か・・・。すりガラス越しに夫をに立ってもらい再現してみました。初めて気づいたことは夫の顔の辺りは肌色がしっかり透けているけれど、さっき見たものは人の姿なのに顔のところは肌色ではなかったなあということです。はっきり思い出せない曖昧な色で灰色がかっていました。今日は、霊感の強い(よく霊をみたりついてきてしまう)弟が突然電話をかけてきて久し振りに家に来たのですがこんなことを言っていたので気になります。「明日20年ぶりに先祖の墓参りに父を連れて行ってくる」と言っていました。私達家族は約20年前親戚達の策略で辛い目に遭い人生が変わってしまったので今も絶縁状態です。醜い裁判中です。先祖のお墓は祖母と親戚達がみていて墓参りに行くことができない状態です。
いつも母や私達で家で線香をあげ先祖に手をあわせていました。さっき見えた姿は絶対に男の人でした。このままでいいのでしょうか?なにか関係があるのか心配です。これを書いている最中も家のあちこちで変な音がします。よくいうラップ音のようです。1階の独立した作りの和室はいつも空気がひんやりしていて私は実は苦手です。夜中の怪しい気配はだいたい和室に入っていくように感じているのですが。なにか漠然とした不安を感じながらどうしていいのかわかりません。

第43話 ハッ!! kさま
お久し振りです
私は、よく  後ろに気配があって
誰かがいるようで(ほら 今も・・・。)
たまに、声がして
ふりかえると 誰もいなかったりするんです
(今日も)
なにか、ついてるのでしょうか?
後ろの気配は、守護霊だと思います
(感覚で なんとなくわかるんです)
第44話 花子さん 霊架 小5
はじめまして 霊架(れいか)と申します 
小3の時ある日突然霊が見えるようになりました(今は小5です) 
友達も霊感(?)があったので2人で「花子さん」を試してみることにしました 
普通には戸がしまらないので友達が持っていることになりました 
「花子さん遊びましょう」とノックしながら5回言うと出てくるらしかったので言ってみました 
4回目の「花子さん遊びましょう」が終わり5回目をいおうとしていたそのとき 
「コン コン」とノックが返ってきました 
私と友達はびっくりしてその場から離れました 
友達は「誰かに手を握られた」といっていました 
そのときは掃除が終わり男子も普通に入ってこれたので
男子も誘ってやっていたので当然誰もいるはずがありません 
そこで教育実習の先生が通りがかったので先生を引き込んでもう一度やってみました 
するとまた「コン コン」と返ってきました
ところが私たち子供は全員聞こえたのですが先生には全く聞こえませんでした 
そこで私と友達と男子にもう1人霊感がある子がいたので除霊を試みました 
そしてそれ以来聞こえなくなりました 
でも今でもかなり鮮明に覚えています 
あれは一体なんだったのでしょうか
    
第45話 なぜ泰山なのか にっき
ご存知の方も多いと思いますが、泰山は中国の東西南北中に定められた五岳の東岳に当たる霊山です。高さはどの山も2000メートル前後で、天を衝く高山と言うわけではありませんが、天と地上の中間、天下の支えとして崇められてきました。
中でも泰山は歴代皇帝が封禅という、国家の安泰祈願と天帝に現皇帝としての礼を示す祭事を行ったことで、「五岳の長」と呼ばれています。
日本的に言えば伊勢神宮に当たるのかも知れません。ただ、伊勢神宮は天皇家の神社ですが、中国は万世一系ではないので、周王朝以来、様々な王朝がここで封禅をしています。
最も封禅に熱心だったのが秦の始皇帝と漢の武帝の中国の二大帝王ですが、中国の皇帝はここで天帝、泰山神の東岳大帝といっしょに歴代皇帝を祭りました。

そうですね。私が泰山へ行こうと決めたのは、私に降りた歴史人物というのが、実は中国の皇帝のお一人だったからです。

「有り得な〜い」と思った人、私はそんなあなたが好きです。
私も長年、そう思いつつ悩み続けたからです。心霊を信じ、軽視しないためにも、慎重な姿勢は必要です。今は、肯定するようになりましたが、検証は続けています。今回の旅もその一環です。

でも、特に神秘現象はなかったので、旅行ガイド、今日の道教の実態と言う形で書かせてください。

第46話 究極の道教的お守りグッズ(出発点・北京白雲観) にっき
すみません。私、ウソをついてました。
私の部屋、ラップ現象だけじゃなかったんです。今はなくなりましたが、去年の初夏の頃は、空気が淀みきって、夜なんて灯りという灯りを全部点けないと、とても居られる状態ではなかったんです。

私は風水には全く興味はないのですが、多分これのせいです。
何せ玄関ホールを入って、エレベータで上がり、部屋に行くと感覚としては西向きの玄関のはずなのに、南向きなんですね。ちなみに、私は野生動物並みの方向感覚を持つ女と呼ばれています。
微妙な角度で歪んでる(勿論そういう設計)。だもんで、寝室なんていびつな五角形、本当に風水好きな中国人が建てたのか?ッて感じです。ここに入ってから悪いことばかり起こるし…。

それで、これはもうお守りを持つしかないと、お守りなら何故か昔からイメージとしてあった宝剣しかないと、早速自分で作ることにしました。

素人がそんなもの自分で勝手に作っていいのか?!と、お思いですね。
それでは、あなたは道教寺院で売っている観音様のカードを有り難く頂けますか?一見して、どこの観光地にも売っているプラスチックと分かる数珠ブレスト腕に巻けますか?
ええ、道教、仏教に関わらず中国の寺院なんてこんなもの。

さすがに道教の総本山とあって、白雲観には全長60センチくらいの桃の木の宝剣というのも売ってますが、こんなもん出張先に持って行けますか?帰国する際、こんな剣を背中に背負った人間を祖国は歓迎するでしょうか?それがあなたの家族や友人だったら…。考えただけでも怖いですね。

そこで私は工芸品店で20センチくらいのペーパーナイフ仕様の宝剣を二振り買い、貴金属の卸売市場へ走りました。関帝、観音、八卦、竜、麒麟、長命鈴…。銀アクセサリーのコーナーで縁起物のペンダントトップを買うためです。
これを宝剣に飾りつけ、留めにしょぼい房飾りを外して水晶の珠飾りを着けます。

そんな寄せ集めみたいな宝剣に威力はあるのか?
没問題。これれを道教寺院に持っていって開眼(こっちでは開光と言います)してもらえばよいのです。
外人が思いつきで作った宝剣を道士が受け付けるか?
それは行って見なけりゃ分からない。

私は完成した宝剣を箱に収め、道教総本山・白雲観に乗り込んだのです。      
      続く
第47話 道教の総本山?白雲観 にっき
白雲観は北京市街の西南部にあります。環境はどちらかと言うと裏町っぽい。拝観料と言うか、入場料は20元。
ここは道士の学校が併設されている、中国道教の中心。
中国の道士はちゃんとお饅頭のような髷を結って、藍色の作務衣みたいなのを着ています。昔、ここが再開された頃に来た時は、まだ宗教的なマニュアルが整ってなかったみたいで、髷は結ってても下がジャージとか、くたくたのセーターとか、凄かったな。

まあ、都にあるので総本山と言うのは間違いではないのですが、その割にはこじんまりとした所です。中心になる神は天帝なんでしょうが、地方にあるその地に縁のある仙人や神をメインに祭った道観(観は道教寺院のこと)に比べると宗教的な雰囲気は私は希薄だと思いました。「有名どころの神を都に集めてみました」ッて感じですね。
中国人が道観で祈願することの殆どが子授けと發財(お金儲け)
それは仏教寺院でも同じで、何だかなあ〜、とタイ人の友人と顔を見合わせたりします。まあ、中国人の友人によれば「仏教を信仰して行けるだけの生活基盤を保つため」なのだそうです。

他人はどうあれ、私は部屋の異様さ、いや、それも含め、強すぎる中国との因縁の中で、遭遇するであろう邪から身を守るための宝剣の開眼ためにここに来たのだ!
開光の神は天帝。本堂を守っている30代くらいの小柄な道士に開光をお願いしました。開光をしてもらえるとは、中国の参拝者も余り知らなかったみたいで、結構注目の的。
「開眼のお布施(中国語ではそのまんま開光費)はいかほどでしょう?」と訊くと、一番恐れていた答え、「幾らでも」が…。
更に注目する参拝客、焦る私。で、財布見ると10元札と100元札が数枚ずつしかない!究極の選択で、10元札を2枚、宝剣一振り10元ってことで、渡しちまいました。
参拝者の手前もあり、道士は苦笑いを浮かべて宝剣の箱を受け取り、暗い堂の中に消えていきます。
堂内が暗いのと、奥行きがかなりあったのでどんな法要が営まれたのか一切見えません。でも、返ってきた宝剣と縁起物のペンダントトップ、水晶に点々と紅い粉がついておりました。

それで、無知な外人に手作り宝剣の評価はどうだったでしょう?
はい。返してくれる時、道士は仰いました。
「?的宝剣挺好(あんたの宝剣は素晴らしい)」と。
それを聞いた参拝客が「どこで売っている?」、「私にも作ってほしい」と口々に…。
凄いですね。さすが道教の総本山ですね。もうご利益がありましたよ(ムツゴロウ口調で)。これで内職すれば、發財間違いなしって、えっ?まさか發財の祈願してくれたの?
お布施をケチったからでしょうか?その後、部屋の空気はすっかり明るくなりましたが、ラップは続きました。
ええ、そのあたりは皆さんにご相談した次第の通りです。

第48話 道教の総本山?白雲観2 にっき
面白くもない長文ですみません。
できるだけ面白い道教寺院の旅行ガイドにしたいと思うので、描写も不謹慎なところがあります。オカルトを期待している方には全くしょうもない話だと思います。
さて、その不遜傲慢なアホ外人が霊場を巡った結果は?

でもきん@まだらきさま
男の気を発していましたか。
実はゲイの受けの方にも付き合いが長いほど「あんたは男だわ」と(化粧もするストレートの女ですが)言われますし、レズビアンの男役の方からも謂れのない嫉妬を常に受けます。その他の性的嗜好の方には普通の女ですが、一部では恋愛対象が男性だから発覚しにくいけど、性同一症候群のホモ版と言われてます。(笑
何となく分かっている前世は全部男、しかも憤怒に燃える鬼。
私は確信がもてないタイプなので、まだらきさんのお言葉は手掛かりとしてとても有難いです。

身留苦さん
私が用意した宝剣は女剣と男剣のふたつです。
女剣は「愛」の字と観音がメイン、それと麒麟。後は男剣と共通の縁起物。これは、迷える霊を改心させ、導くように。
男剣は「徳」の字と関帝、竜がメイン。これは聞き分けのない怨霊を伏魔するため。

でも、白雲観の道士の話では、宝石や数珠、お守りにしたいものは何でも開眼してくれるそうです。
私の宝剣が何で究極の道教的お守りグッズかというと、道教は有難いものは何でも道教の神にしちゃうんですね(観音とかも所によると中国に転生したことになっているし、釈迦も来たことになっている。極めつけは老子がロバに乗って西へ行くという画題はポピュラーですが、これの後付のエピソードはインドに行って釈迦として仏教を開いたというものです)。
そういう教義ゆえに、何でも縁起のよさそうなものを寄せ集めた私の宝剣は道教的にはOK。もちろん皆さんも没問題。
何せ白雲観には頭がよくなるということで、孔子や朱熹も祀ってあります。何だかな〜。

第49話 泰山へ にっき
ラップがやまない…。
そりゃそうです。開光を受けたとは言え、自分自身がその寺院に対し「何だかな〜」と不遜な態度をとり続けているのだから。
粗塩も手に入らない→こちらの掲示板で相談→大理石の粉(byまだらきさん)もすぐには入手できそうにない。
そこで、私はクリスマス休暇を利用して前々から行きたいと思っていた泰山に行くことにしました。歴代皇帝に関わりがあると聞いていたので、私に降りてこられた方に関わる何かがあるかもしれないと思っていたからです。
その時に宝剣を持って行って泰山の霊気に触れさせようとも考えました。(自分の不遜さを悔いないところが罰当たり)

泰山へは北京から夜行に乗るか、長距離バスで行くかです。
仕事の関係で休暇が変則的な私は当日でも切符に余裕のあるバスで行くことになりました。(北京−泰安86元、所要時間6h強)
早朝に出てお昼過ぎに泰安到着、ホテルにチェックインしてから、先ず麓にある東岳大帝を祭った岱廟に行きます。

岱廟の入場料は20元。かなり広い境内ですが、ここには道士はいませんでした。世界遺産に泰山とともに登録されているので、史跡といった感じで、やっぱり観光地です。一応線香を上げる祭壇はありますが、守っているのは市の観光局の職員とお土産を売ってるおばちゃん。でも、宗教施設でなくなった分、堂内に入って東岳大帝の像を間近に見ることができます。
堂内に入って、巨大な東岳大帝像を見上げ、私は思いました。
「この像には東岳大帝が入っている…」
白雲観の神様が魂が無いというわけではありません。こういうものは人によって感応するものが違うのでしょう。
ただ、私にはこれまでに行った道教寺院で初めてのことでした。
ゆっくりと参拝したかったけれど、お土産売りのおばちゃんが周りを取り囲んでどうにもなりませんでした。

翌朝6時にホテルを出て泰山へ。
岱宗坊というところから登って、紅門宮というところが泰山へのゲート。料金所という意味でも(入場料46元)
観光地では所謂物乞いの人をよく見かけます。
岱宗坊で手に障害のある男性が近づいてきました。
私はこういう時は幾らか渡します。同情心からではありません。
「神は人の中にいる」これが、私が中国史を勉強し、中国に実際生活して悟ったことだからです。
お金を渡すと、その男性は、「泰山神のご加護があなたにありますように」と何度も祈ってくれました。でも、私はそれで終わらせません。「施し」ではないのですから、必ず道順なり、土地のことなりを訊いて、こちらが「ありがとう」と言う形で別れます。私にとって修行、若しくは拝むと言うことはこういうことです。
これも自分で勝手に決めたやり方ですけど。
あっ、中とは内部ではなく、群衆の中と言う意味ですよ。 続く
第50話 物乞いの話 1 にっき
泰山の道はすべて階段でその数は5500段あまり。季節は冬で松の他は緑はありません。11月の頭に降った雪もまだ残り、滝は凍りついておりました。5合目の中天門までバスで行くこともできますし、中天門から9合目の南天門までケーブルもあります。
私は麓からすべて歩いて登りました。登山客は殆ど無く、人と言えば飲料水を売ってる店の人くらい。そして、小さな祠で通行人を待っている物乞いの人です。
高さは無くても幾重にも峰が重なった奥深い山で、上に上に続く長い急な階段を見上げると、やはり天に続くと信じられた霊山なのだと思い知ります。
ただ、沿道の祠は意外と小さく、神話に出てくる神の数より少ない。頂上の東岳大帝廟は小規模で、岱廟には比べられません。
ただ、頂上には碧霞娘娘の廟があり、ここには道士がいました。
ここでも、開光をしてもらい、山頂に一泊して歩いて下山です。

ここで開光してもらえたことがきっかけで、五岳で宝剣を開光してもらおうという宿願が生まれました。

次に訪ねた北岳・恒山は、北岳は山の廟も、平地にある北岳廟も違った意味で荒廃しておりました。冬場で人が少なすぎたせいでしょう。恒山へは大同から長距離バスです。

恒山で少し気落ちした私は、北京に戻らずそのまま嵩山に向かいます。ここは少林寺で有名なところですが、嵩山は中岳、山自体は道教の山です。
先に山に登りました。ここの階段は4800段余り、ケーブルはありません。沿道には泰山より多くの廟、祠があります。
その祠一つ一つを守っているのは主に道姑と身寄りのなさそうなお年寄りの女性。ここの廟は農村の宗教施設としての機能をまだ失っていなかったのですね。
祭られている像はみな農村の人々の手作りでしょう。神様が居る居ないではなく、信仰の深さが偲ばれます。
私が感動したのは山頂にある中国で最も古い女神の一人女?像。他の地域で明代の衣装を着た女?像を見たことがありますが、ここのものは太古を表すワンショルダーの衣を着、伝説通り天を補ったときに使った岩を手を高く掲げています。原型です。数千年もの間、ここで信仰されていたのでしょう。
更に心に残ったことは、やはり開光を受けたこと。他の廟とは違ったやり方でしたが、真剣に祈ってくださった道姑はもちろん、周囲に居たお婆さんたちが、私の宝剣を手にとって、「きれいだ、きれいだ」と、喜んでくれていたことです。綺麗な光物など自分の持ち物に無い農村の暮らしを私は見聞きしています。私が作ったいい加減な宝剣を、宝物のように扱ってくれるお婆さんたちを見て、私は申し訳なさではなく、作ってよかったという気持ちを自然に抱きました。
権威から見れば、ここに祭られている神像こそ「何だかな〜」なのだろうけれど、私もここで美しいと心から感動できるものを見せてもらえたから、私の宝剣も魔を屈服させる力は無くても、綺麗なものを見たと喜んでもらえるならそれでいいのだ。