あきらめる心  ----- -\\\\\\\\\\\\\\\\\\---  身留苦




なまじ努力が報われる人生を送ってきたということが、かえってその人の足を引っ張っているように思うことがあります。
この世、特にこの現代日本に生まれれば、自営以外のほとんどの職業に世襲制というものはなく、
努力次第である程度のし上がって行けます。
持って生まれた適度な知能と向上心とがあれば、
努力して自分のレベルに見合う環境を手に入れようとするのが常識というものです。
それの何が悪い?と目を剥く方もいらっしゃるかもしれません。
いや悪くはないのです。
この世の肉体を背負って生きているからは快適な衣食住を求めるのは当然の欲求であるし、
この世のほとんどすべてのものの価値が貨幣に換算されている以上はお金を求めるのもまた当然の欲求です。

人は皆死からは逃れられず、この世の終わりには死を迎えねばなりません。
その死の先に新たに霊としての生があると考えたとき、人は心の平安を得ます。
この世において霊性が多少なりとも開かれ、それによって死の先の霊界を実感できるのであればなおさらです。

しかし不幸にして霊性がこの世では開かない人がいるのです。
方法次第では開く人もいます。
(ここでいう方法とは、このようなサイトを見たり、霊能者と付き合うことなどにより能力が伝播されることを指します)
どのような方法をもってしてもまったく開かないまま生を終える人がいるという現実はいかんともしがたいことで、
これは素質の問題であり、本人にも誰にも責任のないことです。

この、一生霊性が開かない人のあり方というものを問われることがありますので、答えていきたいと思います。
最初に努力をする人のことを言いました。
持って生まれた適度な知能と向上心とがあれば、この世的な物事はたいてい努力が報われるものであると。
そしてこのような人が死後を考えた結果霊界に興味を持ち、
時にはさらに進んで霊能力や超能力といったものに非常な憧れを抱くことがあります。

極端すぎる憧れはまた劣等意識の裏返しであり、
単に死の不安の払拭だけでなしに、霊能力者や超能力者へのコンプレックスを払拭せんがため、
時には超人となり他人と峻別されることで優越感に浸りたいがため、というよろしくない意識が働いていたりします。
そこまでになりますと魔が忍び込む隙ができてしまいます。
このことは後述します。

努力した結果としておおむね物事が報われてきた人というものは、
当然ながら霊能力や超能力を身につけることに対しても同じように努力をします。
その種の本を読み漁り、カルトな物品を購入し、カルトなイベントに参加したりします。
このような過程を経てカルト宗教に魅入られてしまう人たちの中に、まっすぐな優等生タイプが多いことはよく知られているところです。

気をつけたいことの一つはここです。
先に書きましたよろしくない意識をかきたてるような言葉が、営利主義の本性を隠したカルト宗教の教義に潜んでいることが多いものです。
人生を誤らせるだけでなく、あの世でのあり方さえも誤らせてしまうのは大変恐ろしいことです。
魔とは、そういうことです。

別の魔を挙げます。
旧約聖書で言うところのカインとアベルの話です。
カインとアベルという兄弟がおり、兄カインの献げものは神に目を留められず、弟アベルの献げものは神に目を留められました。
そのためカインはアベルを妬み、殺害し、死体を隠してそ知らぬふりをします。
私はこの話を自らメディテーションによって、ある宗教団体に対する喩えとして受け取りましたが、こういうことです。
献げものが神に目を留められた留められなったというのは、
たまたまこの世において霊能力や超能力の素質があったかなかったか、という巡り合わせを表します。
カインは努力をしたが霊能力や超能力が身につかず、アベルは努力もしないのに身につけました。
よってカインは心に魔を忍び込ませてしまったのです。

異常なまでに、それが似非にせよ本物にせよ霊能力者や超能力者に対しこういった敵がい心をあらわにする人においては、当の霊能力者や超能力者への非常な憧れがあるのを看て取ることができます。
心とは摩訶不思議なもので、このことは二律背反するようでいて並列するのです。
魔はひたひたと心に忍び込み、良心を曇らせ、理性を侵し、そしていずれはすべてを破壊し尽くします。

この世の現在ただいまにおいて、霊能力や超能力が身につかないという人は、
嘆き、怒りを抱けばそのすべてが自らに対しマイナスにしか作用しないのだと知らねばなりません。
意識と無意識ともども、むさぼるのではなく、あるがままを受け容れ、恬淡とした「あきらめる心」を持つことが、
この世でもあの世でも幸福になる近道です。
つねづね私が中道がよいと言っているのは、こういうことでもあるのです。