粘着の輪廻     身留苦




近年は粘着型気質の人間の呼称として、「粘着」とただ一言で表現して足りるようです。
ここでも以後は粘着という呼称を使わせていただくことにします。
粘着の特質は、被害者意識が強く、自己中心的、他罰的、攻撃的、などと言うことができますが、
これを粘着の人自身は絶対に認めたくないし、認めることをしないでしょう。

しかし「粘着の最大の特性はしつこいことです」と言えば、
「ああ、自分はしつこいかな。こだわるタイプかな。」と思い当たる人もいるでしょう。
粘着のしつこさとは、「粘着の輪廻」に組み込まれていることを指します。
「粘着の輪廻」とは、対象を替えつつ報復攻撃を繰り返さずにはいられない、
永遠の煉獄とでも言うべき精神構造です。

このように、粘着が攻撃をやめたいと思ってもやめられない「粘着の輪廻」にはまってしまうのは何故なのでしょう。
それは粘着が他人から受けたささいな屈辱がトゲのように記憶に刺さって抜けず、
激しい怒りが繰り返しフラッシュバックするためです。

また粘着の怒りの原因である他人との諍いは、殆どの場合粘着の側から攻撃を仕掛けることで起こります。
人は誰でも、社会に出て多くの人と接するうちに、考えが合わず気に入らない人が出て来るものです。
通常はそこで他人を「懲らしてやろう」という考えには至らず、深入りしないよううまく距離を置くことで済ませてしまいます。
しかし粘着にとっては気に入らない人が頻繁に現われ、その気に入らない行為を傍観することに耐えられず、
いちいち逆上し、思わず先制攻撃を掛けてしまうのです。

その際、粘着の真の目的は、相手を正すことよりも、相手を傷つけることにありますから、
毅然とした正論の申し入れではなく、蔑むような皮肉めいた煽り文句で始まることが多いものです。

粘着の性質についてはこのくらいにしておいて、
このような粘着の輪廻から遠ざかるにはどうしたらよいかを考えてみましょう。

まずは他人に対し味方と敵という極端な二元論に傾きがちな粘着の敵側に回らないことですが、
気づいた時には粘着の敵と目されてその時相手が粘着だとわかるわけですから、ほとんど不可避と言えます。

ですから対策は、既に攻撃をされ始めた時どうすればよいかにかかります。
答えは簡単すぎるほど簡単ですが、「徹底したネグレクト」です。
これは粘着へのいっさいの反応をなくしてしまうというものです。
心もないのに謝り、心もないのに褒めたとしても、粘着は喜ぶどころか反発するだけです。
よって「臆病者」「馬鹿者」と、手応えがほしい粘着に何を言われようと構わずに「無反応」を通します。
苛立つ粘着が放つ暴言、根拠のない捏造、匿名の誹謗中傷、その他犯罪以外はすべて「黙殺」します。
粘着は、相手からの反応がなくなれば興味を失いつつ「仕返すことができないのだ」と一時的な勝利感を味わいますが、
それでいいですし、それこそが目的です。

なにしろ粘着は真の意味で勝利していることにはならないのです。
私は運転中、煽りながら猛スピードで追い抜いて行く車があってもまったく腹が立ちませんが、
そんな無謀運転をする車はいつか大事故に遭う可能性が高いので気の毒になるからです。
それと同じことで、粘着の攻撃は本人が一時的に勝利したと思い込んでいても、
その勝利感が次なる他者への攻撃エネルギーに転換されるだけだとわかっていますから、
やはり腹が立たないのです。

こうして粘着自身が輪廻の只中にいることに気がつかない限り、
粘着の煉獄は時と場所と相手を変えながら、永遠に続いて行くのです。
気の毒というほかありません。

抜けたくても抜けられない対人トラブル連続の日々に疲弊し、粘着はいつも考えます。
「どうして世の中にはつまらない人がこんなに多いのだろう」
「どうして自分はいつもトラブルに巻き込まれるほど運が悪いのだろう」
「自分には才能があるはずなのにどうして誰それの方が脚光を浴びるのだろう」

真の自分の姿に気づく頃はもはや人生の晩節であることも多く、
決して戻らない時間と費やした労力に後悔の臍(ほぞ)を噛んでも時既に遅しで、
程度が酷ければ死ぬまでそれに気づかぬまま、攻撃に明け暮れた傷だらけの人生の幕を閉じるのです。

粘着が「粘着の輪廻」を断ち切るには、
まずは他人に勝ちを譲り、負けて構わない、という余裕の気持ちを持つことが必要でしょう。
もちろん見返りを求めるような、負けて勝ちを取るという意味の負けではありません。
粘着の持つ、絶対に他人には負けたくないという強い感情は、どうかするとこの世での物質的な利益を生みますが、
嵩じれば自分自身を貶める魔への道に直結するのです。
そして粘着でない人は粘着と折り合う必要はありません。
粘着から遠ざかるということは、魔から遠ざかるということです。

もしここまで読んでもわかっていただけない人がいるのでしたら、魔道が身の丈に合った人でしょう。
そういう人はそういう人で魔道をひた走ればよいのです。
死後その先に何が待つのか、私にもはっきりとはわかりませんが、特段知りたくもありません。



                                                      
                                                     合掌。