墓     身留苦




老境に差し掛かり日本人の誰もが切実に考えることは唯一つ、
自らの死の有り様でしょう。

たとえ死後の魂の存在に懐疑的であっても、
墓を持ち遺骨を埋葬するように計らうのが、日本での一般的な慣習となっています。

しかし近年、散骨と言って遺骨を墓中に納めるのではなく、
海や山、果ては宇宙に撒いて散りたい、と考える人たちが増えています。

高額な墓所の確保に悩むこともなく、子孫に墓守りの負担を掛ける気遣いもない、
合理的且つ心優しい考え方です。
むろんその根底にあるのは、成仏を広義に解釈したその人の思想、信条でしょう。

ただ、自分もそうしたい、とは思ってみるものの、
死んで霊となった際に墓がないことを後悔するのではないか、という不安から決断がつかない人たちがいます。

一体、墓は必要なのでしょうか。それとも必要ないのでしょうか。

墓の目的を考えていきましょう。
死後、墓自体には霊が眠るものではなく、霊は霊界へと旅立ちます。

では霊のいない墓だから墓は必要がないのでしょうか。
日本では、死後死体を焼却するのが定まりで、焼却後に出る遺骨を埋葬する義務までは生じません。
つまり墓の意義、存在目的の主たるものは、遺骨の維持管理であり、
直裁に言えば、遺骨を維持管理したいならば墓が要る、しなくてよいならば墓は要らない、ということになります。

墓が要らず散骨にした場合、日本の法律に抵触しないのみならず霊界的にも問題はありません。
霊が亡くなって暫くの間は現界で人とコミュニケーションする場所が必要なこともありますが、
その場合も墓でなく家の仏壇などで十分です。
「墓に葬られたい」と生前から墓に対する思い入れの強かった人は、
墓こそが霊の行くべき場所と思い墓に留まりますが、
それでも一定期間が過ぎて霊界へ行くまでの間のことです。

問題があるとすれば、生きている人間の側の墓に対する意識です。
子々孫々墓に名を刻まれた先祖として、
この世で生きた証が伝わることを望むのか、望まないのか。

自分の生きた証がなくなることは、
歴史に名が残るわけではない大多数の人にとっては寂しいものでしょう。
子孫が墓にお参りに来るということは、
とりもなおさず先祖となった自分を思い出すよすが、モニュメントとなるということです。

そこに価値を見出し、是非そうであってほしいと願う人が多いから、
墓を持つ人が多いのであり、一方でそんなことは必要ないという人も少数ながら確かにいるわけです。
墓を持つ、持たないは、その辺りの個々人の価値観の差によって決めるものと私は考えています。