杉本彩と私    身留苦



杉本彩と私。

杉本彩と私。

杉本彩と私。

なんというタイトルであろうか。
センセーショナルにして人心をざわつかせるタイトルとなっているのは、
昨今の杉本彩の超過激な言動ゆえである。
しかしこのタイトルは高島彩であっても松浦亜矢であってもだめなのだ。

話は数年前に遡る。
まだタレント杉本彩がまとも?だった頃。
親戚の幼児たちが3人、親に連れられて我が家に遊びにきていた。
彼らにはいつもみるくお姉ちゃんと呼ばれている。
ソファに座って談笑中、たまたまテレビがついており、幼児たちは見入っていた。
突如幼児らが口々に言い始めた。
「あっ、みるくおねえちゃんだっ」
「ほんとだー、みるくおねえちゃんみるくおねえちゃん」
「みるくおねえちゃんーーー」
なんだなんだとその場の全員がテレビを見る仕儀となる。
もとより驚愕してテレビを見つめたのは私である。
なんと、テレビの中のステージ上に杉本彩が颯爽と登場したところ。
しかし私は杉本彩とは顔も似てなければ、スタイルもあんなによくない。(羨ましいとも思わないが)
それは私に会ったことのある人ならよくわかることである。
その場の大人たちも仰天した。
「なんであれがみるくお姉ちゃんなのよー?違う人だよ」
なんなんだ、似ても似つかないじゃあないか、と皆思っていたはずだ。
その理由を問い質していたが、
3人の幼児たちはただみるくお姉ちゃんだと言い張って譲らず、互いに共感しあうばかり。
例えるなら、「空は青い」といった既成事実に対し疑問を差し挟まれた時のような反応だったと言えようか。

このことは、私の心の中に解明しようのないミステリアスな謎として、
澱(おり)のように沈んだ。
そして月日が経過するにつれ、諦め忘れ去られようとしていた。
しかし突然に、解明される日はやってきた。

例によってテレビである。
大学教授などの出演する検証番組で、
「人の顔に関する記憶のメカニズム」について解説していた。
最初はなんとはなしに見ていただけだけれども、
話を聞くうちにいつしか身を乗り出していた。

人の顔の記憶というものは、その人の体験によるリストが作り出す。
つまり、人と接した数が多ければ多いほどその人の持つ識別リストは多くなる。
骨格、目の形状、鼻の形状、口の形状、その他、
多様な顔のリストを持った人ほど多くの人をより正確に識別できる。
人が人に対しAはBに似ていると言った時、全然違うと思う人もいる。
それはそれぞれが持つ識別リストの種類が違っているからだ。

振り返れば、私が目の前にいたにも関わらず幼児たちに杉本彩と同一視された時、
「先祖は同じかも。骨格が同じ」うんぬんと言った大人がその場に一人いたことを思い出した。
幼児は人と接触した体験が成人に較べ格段に少ない。
識別リストは当然少なくなるはずで、
その中では目鼻立ちよりなにより、骨格が最優先されるということなのだろう。
結果として、顔の骨格だけで私を杉本彩と断じるに至ったのであろう。

謎は解けた。
それにしても幼児の記憶に残った人の姿というものは、
目鼻立ちもスタイルも髪型も洋服も度外視され、
骨格だけが強調された化け物のようなものだったりするんだろうなあ、と思ったことだった。